知立の歴史ぶらり探訪・翁のいざない
第2話(前編) 伊能忠敬の天体観測
小象限儀などで
1805年4月4日晴天。六つ(午前6時頃)、公儀御用測量方として岡崎を訪れていた伊能勘解由忠敬一行は、2班に分かれて出発。先発は副隊長の高橋善助による大浜茶屋(安城)から池鯉鮒までの測量。後発は自らが率いて岡崎から大浜茶屋へと向かう。忠敬の手には使い慣れた湾果羅針(杖先磁石)、一歩約69センチを刻みながら測量でした。
矢作橋は大雨により破損していたために、橋の途中まで測量して、渡船にて対岸に渡る。その後、小象限儀などで破損していた部分を測量して大浜茶屋へ。
伊能隊が持参していた測量器具は、象限儀(中、小)2台、子午線儀、大望遠鏡、半円方位盤、錘搖球技、測食定分儀、割円八線対数表、鉄鎖、間縄、梵天など。池鯉鮒宿本陣に到着した一行は、直ちに天体観測の準備。南北に明けた10坪ほどの土地を陣幕で囲い、各種の測定器具を備え付ける。忠敬の担当は主に子午線儀でした。
(坂之上九門)
(知立くらしのニュース 2011.6.4 掲載)
第2話(後編) 伊能忠敬の天体観測
つかの間の休息時間に夕食。池鯉鮒宿本陣料理(1743年)は、ご飯、鴨肉の炒め物、海老の塩焼き、鮎の煮びたし、野菜の和え物、味噌汁、漬物と記載されていますので、伊能隊一行もほぼ同様の献立だったのでしょう。
なお新鮮の海老は東浦から届けられて塩焼きにされ、池鯉鮒名物になっているのです。観測が控えているので伊能隊は飲酒厳禁。
星が出始めるといよいよ測量開始。唯一残されている「浦島測量之図」によれば5人で行われています。忠敬は子午線儀を担当、象限儀は2人、残り2人は記録係。忠敬の大きな声が響く、「勾陣第3星(小熊座イプシロン星)まもなく南中」。象限儀係が灯の下で読み取り、「高度、65度23分45秒」などと応えながら書き写す。こうして、夜半まで測量が続けられたのです。
好天の夜、池鯉鮒宿本陣跡に立って夜空を仰いでみませんか。そして、「四千万歩の男」、忠敬の偉業を偲んでみませんか。
(坂之上九門)
(知立くらしのニュース 2011.7.16 掲載)