知立の歴史ぶらり探訪・翁のいざない
第1話(前編) 坂本龍馬の足跡
72歳。卯年の翁が一人、知立市中町中の交差点にいます。交差点は変形の6差路。1601年に制定された東海道に、東西南北に通ずる2本の道が交わった不思議な道です。
この不思議な交差点を起点にして、『知立市史』を基本資料に、皆さま方を血流に残る歴史の表舞台・裏舞台へとご案内します。題して「知立の歴史ぶらり探訪『翁のいざない』」。もとより浅学非才。ひときわ強度を増した老眼鏡を共にしてのご案内ですから、迷子、道草、寄り道は日常茶飯事。読者の皆さま方の温かいご声援を心の杖にして、まずは初めの一歩を踏み出したいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
目を閉じると、1853年早春のある日、江戸の向かって池鯉鮒宿を通りすぎていく若者の姿が見えます。若者の名前は、そう、坂本龍馬。本名、直柔、19歳の若侍でした。旅の目的は、土佐を離れて俊英が集う江戸で剣術を学ぶこと。
(坂之上九門)
(知立くらしのニュース 2011.4.2 掲載)
第1話(後編) 坂本龍馬の足跡
江戸三大道場のひとつ北辰一刀流千葉道場で猛稽古の傍ら、龍馬が出向いたのは三浦半島の浦賀。沖合いに停泊中なのは、琉球から父島(小笠原諸島)を経て来日したペリー艦隊(蒸気船2隻、帆船2隻)。煙突から煙を吐き、外輪を回しながら航海する黒船に、龍馬もまた仰天したことでしょう。
半年後の1854年の2月、再訪したペリー艦隊は7隻に増船。歴史の曲り角を目の当たりにした龍馬の胸に去来したものは?
その後、龍馬は1回目の江戸遊学を終えて帰国。1857年、23歳になった龍馬は2回目の江戸遊学。今度は、「安政の大獄」に向かって吹く厳しい世相を味わって土佐に帰国。しかし、時代は龍馬を必要としていたのです。1862年、意を決して脱藩。 時代が大きく揺れ動く中、東奔西走する龍馬の足跡が池鯉鮒宿に存在するのです。平成の龍馬になって中町中の交差点を歩いてみませんか。
(坂之上九門)
(知立くらしのニュース 2011.5.21 掲載)