依佐美送信所建設の陰に渋沢栄一
刈谷市の鈴木哲さんが事実確認
日本無線電信の設立委員長
「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔になる渋沢
栄一(1840~1931)が、刈谷の産業遺産として知られる依佐美送信所の建設に関わっていました。刈谷市野田町の鈴木哲さん(桜花学園大学非常勤講師)によって、同送信所を運営していた日本無線電信株式会社の設立委員長を務めていたことが分かり、4月8日に同市の半城土市民館で行われた依佐美送信所記念館ガイドボランティアの会の例会で発表。「深い関与でないにしても、渋沢がいなければ、スムーズに設立されなかった可能性はある」と指摘します。
最晩年の会社関与
2月頃、渋沢をテーマにした「別冊太陽」(平凡社刊)で、設立に関与した企業一覧で「日本無線電信」を発見。「もしや」と思い、渋沢青淵記念財団竜門社がインターネットで公開している「渋沢栄一伝記資料」を閲覧し、テキスト検索したところ、「設立委員長 子爵 渋沢栄一」「創立ニ関スル相談会 …栄一出席ス」などの記述を確認しました。
渋沢が委員長に就いたのは、1925年の85歳の時。「実業界から身を引き、社会・公共事業に専念していた渋沢にとって最晩年の会社設立関与です」と鈴木さん。29年4月18日に同送信所の開局式が行われましたが、「渋沢はその前後にあった別の催事を病気で欠席していますので、刈谷に来たことは考えにくい」と推測します。
事業推進にお墨付き
同ガイドボランティアの会、市郷土文化研究会の会員である鈴木さん。両会の歴史研究で、こうした事実が分かったのは初めてといい、「初代社長の内田嘉吉がプロモーターなら、渋沢は事業推進にお墨付きを与え、陰で支えた人ともいえます。依佐美送信所の歴史に渋沢の名前があったことが分かり、とても驚きました」と話しています。
【依佐美送信所】
1929年、世界最大級の長波無線通信所として、現在の刈谷市高須町に完成。諸外国との通商などで使用され、太平洋戦争時には
「ニイタカヤマノボレ」の暗号文が潜水艦へ発信されたといわれています。高さ250メートルのアンテナ鉄塔8基が建ち並ぶ風景は、刈谷のシンボルとして市民らに親しまれました。鉄塔は97年、送信所は2006年に解体されました。
(刈谷ホームニュース2021.5.14掲載)